2013年7月25日木曜日

日中戦争・太平洋戦争終戦(敗戦)特集
戦争の後始末のたたかいは終わらない
最高裁決定に怒り、「空襲被災者等援護法」(仮称)制定に全力
               東京空襲遺族会会長 星野 弘
 
最高裁、司法の任務放棄
さる2013年5月8日、最高裁は、「本件上告を棄却する。本件を上告審として受理しない」と決定を出しました。その内容は、まったくなく、人権侵害と被害回復を判断する司法の任務を放棄したものです。原告団・弁護団は抗議声明を出し、最高裁門前で抗議の意思を表明しました。当日開催した報告集会では原告達は「たたかいは終わらない」と決意を述べ、国会に向けた100万人署名の促進、広く共同と連帯をすすめる活動を推進することを決めました。 
 高裁「立法で解決すべき問題」
6年余の裁判の中で、東京大空襲の無差別爆撃の惨状を告発し、事実審議を重視し、専門家証人や弁護士の援助で頑張り、裁判は棄却されましたが、裁判の到達点は、①深刻な「被害を認め被害者の心情に理解」、②国家の道義的責任を認める、③「戦争被害受忍論を書かせなかった」など成果を上げました。また高裁は地裁判決を引用し「国民自身が自らの意思に基づいて結論を出すべき問題、すなわち国会が様々な政治的配慮に基づき、立法を通じて解決すべき問題」と指摘しています。この到達点は、多数の原告の証拠調べの実現、証人・弁護団の論戦と世論の高まりの中での到達点です。 
民間人も軍人も法の下での平等をとの道理にあった「遺族に願い」への支持と共感も一定のひろがりが作られました。
 マスコミも最高裁決定直後に「政治の責任で救済に動け」(西日本新聞)、「政治が人道的決着を」(東京新聞)など社説で支持を表明し、国に対してその実現を求め、多くの新聞も好意的報道をしています。 
全国連帯した取り組みに
全国空襲被害者連絡協議会は、ひきつづき大阪大空襲訴訟団、沖縄戦被害者特措法訴訟団と連帯し、また、沖縄、九州、大阪、愛知、千葉、東京三多摩、首都圏などに拡大された組織の総力をあげ、「空襲被害者等援護法」(仮称)の実現と、国会議長宛の「立法実現をめざす署名」の推進、超党派の議員連盟の結成をめざした、要請行動などの促進と、各種団体との共同のたたかいに全力を上げています。 
軍人・軍属には54兆円支給
戦後68年、軍人・軍属には、54兆円を超える国費を投じ、現在も年金、補償を続けています。ところが、民間人には救済も補償もまったくしていません。
空襲死者は50万人を大きく超え、全国で1,000万人の被災者を出し、傷ついて傷害者となった人、親、兄弟を失い天涯孤独の孤児となった人々は、筆舌につくせない戦後生活を送り、今もその労苦を引きずって生きています。さらに、国立の追悼碑も資料館すらもありません。 
各国は軍人・民間人等しく救済
国際的には、戦勝国イギリス、フランス、敗戦国ドイツ、イタリアも軍人・民間人を等しく救済、補償をしています。これが世界の常識です。この日本政府の不条理を正すことこそ、死者の人権と、平和を守る道です。 
たたかいは終わらない
今、安部内閣は憲法改悪、国防軍の創設をと戦争の惨禍を繰り返す道を進もうとしています。最高裁棄却決定をうけた原告たちは怒りを新たに「たたかいは終わらない」決意を述べ「死ぬに死にきれない」「平和な日本を孫子の代に届けよう」と決意を新たにしています。多くのみなさんの変わらぬご支援、ご協力をお願いします。


 鬼から人間へ

 2年前に亡くなられた小山一郎さんは、1940年から1945年、侵略戦争に従事、シベリア抑留を経て、中国に移され撫順戦犯管理所に拘留、中国政府の寛大な措置で起訴免除、1956年に帰国。
 帰国後、侵略戦争の実態の証言活動を続け、日中友好と平和のために尽力。第一次安倍内閣の07年に冊子「一兵士の加害と反省の記・戦争証言 鬼から人間へ」を発行。安倍内閣の歴史認識が再び問われるもとで、冊子の一部(要約)をご紹介します。

銃剣刺突訓練
半年間の初年兵教育の後期に入る頃、いきなり「刺突訓練」が行われました。日本軍が「敵性地区」と決めている集落に初年兵40名、古参兵40名で進軍したとき、「初年兵集合!」の号令がありました。集落の広場の樹木に78人の中国人が目隠しされて縛られていました。八路軍(中国共産党が指揮していた軍)の情報を教えろと言っても教えなかったから「親日的でない。生かしておけん」となったのです。
「これから貴様らを一人前の兵隊にしてやる!」と中国人たちを銃剣で刺し殺すよう命令。一人の中国人を兵隊67人で代わる代わる突き刺した。古参兵の「突撃!」の号令で10メートルほど走って突くのです。
皆はじめてなのでうまく急所に達せず、肩や脇腹を刺されて真っ赤な鮮血にまみれて呻いている。死ぬまで何度も何度もやり直しさせられた。古参兵が「これで貴様も一人前の兵隊になったな」と言いました。
そうです、私は生まれて初めて生身の人間を殺したのです。それもごく普通の農民を。
これは、当時の中国の前線部隊ならどこでも中国人を捕まえて「刺突訓練」で虐殺し、作戦中に抵抗なく人殺しができるように生身の人間を刺し殺していたのです。 
三光作戦
 八路軍は、住民が応援して日本軍の動きを通報するので、いくら追ってもだめ、引けば待ち伏せ攻撃してやられるで大変日本軍は被害を受けました。広大な農村地帯はすべて八路軍の影響下にあった「敵性地区」でした。その「敵性地区」を徹底的に殲滅するというのが「三光作戦」(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)の趣旨でした。
 私たちの部隊は1943年秋頃に山東省沂水(いすい)という街を中心に八路軍の根拠地を殲滅させる命令を受けました。第59師団総出の作戦でした。出発の際、部隊長から「これから行く地域は敵性地区である。人という人は皆殺しにせよ!家という家はすべて焼き払え!役に立ちそうな物資はすべて奪え!二度と根拠地として使えないようにしろ!」という訓辞でした。タイマツを銘々で用意し、ある村を夕暮れどきから襲いました。150200軒の集落がいくつも点在していますので広いです。何千人でタイマツを持ち、「突撃!」「進め!」で日本兵がいっせいの火つけ競争したのです。粗末な藁葺きの農家は簡単にメラメラと燃え上がり、一晩中、競い合うように家々に放火して回りました。私だけでも20軒ほど放火したでしょうか。
 侵略軍は、逃げ遅れた婦人がいれば強姦したり、戦友と一緒に輪姦したりして、その後で銃剣で刺し殺しました。「死人に口なし」です。
 5年の間に部落討伐を何十回と行いました。 
ウサギ狩り作戦(中国人の強制連行)
アジア太平洋戦争に突入し総力戦になると、兵器、弾薬、物資が欠乏し、男子を兵隊として大量動員した結果、工場や炭坑などの労働力にも影響、東條内閣は「華人労務者内地移入ニ関スル件」を1942年に閣議決定しました。
 この閣議決定を先取りして、山東省駐留の第12軍作戦として、第59師団の私たちの部隊に中国人を捕縛する命令が下されました。
 9月の東平湖西方作戦では、銃剣の先に日の丸を結びつけた何万の兵隊が10メートル間隔で広がって「ワオー!ドウー!」と一斉に大きな声を張り上げて徐々に追い詰めていくのです。15歳から50歳ぐらいの労働に適した男たちを次々に捕まえてはロープで縛り上げました。私たちの大隊では約300人の中国人を捕まえました。
 11月の魯東作戦では、山東半島を根本から岬の突端まで囲い込むように行い、私たちの中隊では約300人の中国人を捕縛。牛、馬、豚も大量に略奪したので、鉄道の駅まで連行された人間、牛馬豚の行列が延々と続きました。翌朝まで煉瓦造りの小さな倉庫に全員を押し込めることにしました。立錐の余地もないほどギュウギュウに詰め込みました。翌朝、点呼のために倉庫のドアを開けたところ、約半数の中国人たちが酸欠状態で死んでいました。生き残っていた中国人たちもバタバタ倒れていて虫の息状態でした。  
この作戦全体で約8000人の中国人をとらえたのです。以下略

「鬼から人間へ」500円。申込みは下記FAXへ 
          鰐部明氏 39080506