未来を開く全日空の会 高木 正明
福島県南相馬市で災害ボランティアに参加してきました。この地を選んだのは、原発事故による放射能の影響で宮城県などに比べてボランティアが少ないと報道されていたからです。
南相馬市を襲った津波に加え、原発事故による放射能飛散という二重苦に直面し、東日本全体の避難者約10万人(5月末)のうち、南相馬市の避難者はその2割(2万人)に及んでいます。
現地に入るとまず被災状況を車で案内していただきました。集合場所から3キロほど南下した20キロ圏警戒区域入口では警察官が検問をしており、住民といえども勝手に立ち入ると罰金10万円とのことです。
海岸に近い県道の左右には、人が生活していたかけらも見ることができません。内陸部まで押し流されたおびただしい数のテトラポットに津波の威力を思い知らされます。まさに壊滅状態です。海岸から3キロも内陸に入っている国道6号線を走ると多くの漁船が路肩まで打ち上げられています。
田んぼなどには津波によって運ばれた大量の瓦礫が残ったままです。農家にとってはそれだけでも前途を悲観するに値する困難ですが、それに加えて放射能の土壌への蓄積が絶望へと引き込もうとしています。
しかし、この地で希望を失わない人々に出会いました。瓦礫と放射能に覆われた田んぼを再生させようと、農家とボランティア連絡会が行動を起こし、3枚の田んぼ(6千平米)でトライアルがはじまりました。
まず瓦礫を片付け、セシウムなどの放射性物質をよく吸収するといわれるヒマワリを植え成長したら刈り取り別の場所で集中管理、放射能レベルが低下したら稲作を行なうというプロジェクトです。この農地を提供し自ら率先して作業の先頭に立ち地元の農家を励ましているのは、原発の危険性を長年訴え続けてきた地元の元議員さんで、現在はボランティア連絡会の役員をやっているおじいちゃん(Kさん)です。
私に与えられたボランティア活動は幸いにもこのヒマワリプロジェクトでした。群馬、千葉、愛知の青年たち、小学校の先生を退職したばかりの高知のNさん、徳島から来たK建築士、そして紅一点?の京都のK元保育士などが瓦礫拾いに汗水を流しました。老若男女の作業が延々と続けられ、3日間、述べ20人の作業で瓦礫の片付けが完了しヒマワリの種植えを待つばかりです。
瓦礫といっても人間生活のありとあらゆるものが拾い集められます。ランドセルやアルバムなどはボランティアセンターに届けられ、きれいに洗浄・乾燥・修復され展示し持ち主に戻されます。赤いランドセルなどを見ると、「生きていてほしい」と涙が出てきます。というのは、この近くの避難所の高台で60人中30人が津波に流されたと聞いていたからです。
ボランティア仲間は、ここを「希望のヒマワリ畑」と名づけ、花咲く9月に再会を約束しあいました。
翌日は台風接近のため屋内での作業となり、救援物資の冬物と夏物衣料の分別、大きな袋に入ったったお米を5合の小袋に分ける作業などを行ないました。今回のボランティア活動は、これまで味わった事のない充実した体験となり、大きな希望を分けてもらうことが出来ました。