2011年9月6日火曜日

国際署名運動の巨大な波を決意した世界大会


                                             石村 和弘;東京原水協事務局長  
  今年の原水爆禁止世界大会には国連代表をはじめ各国政府代表を含む25カ国の海外代表88名など7800名が集い、東京からは712名が参加しました。

  今回は、2つの特徴がありました。一つは3月11日の東日本大震災・大津波そして福島第一原発事故・放射能汚染が広がる中での世界大会と言うことです。1955年の第1回世界大会以来、私たちの運動は核兵器廃絶及び被爆者援護連帯を掲げて運動し「被爆者を再びつくらせてはならない」と世界に訴えてきましたが、この被爆国日本で原発事故が起きてしまいました。
世界大会では福島県の代表や海外代表の大多数が「福島原発事故」について語りました。そして、「放射線によって苦しむ人びとをこれ以上生みださないとこと。原発からの撤退と自然エネルギーへの転換を求め、国民的な共同と連帯を発展させましょう」と呼びかけました。

  もう一つの特徴は、潘基文国連事務総長が世界大会に代理としてセルジオ・ドァルテ氏を派遣しメッセージを寄こしたことです。そこには「みなさんが集めた一筆一筆の署名、発表されたひとつひとつの声明、集会でのひとつひとつの発言や集会そのものを通じて、みなさんは、世界で最も残虐な大量破壊兵器(核兵器)をなくすという、発展しつつある歴史的プロセスへ人々の参加を促しています」とありました。正に国連のトップに立つ人が日本の運動と共に核兵器廃絶への道を歩もうとの意思を示したことです。

  10月2日から「核兵器全面禁止のアピール」署名及び自治体首長賛同書を持って国連に東京代表3名を含め日本原水協代表団は出発します。署名を代表団に託して下さい。

2011年8月5日金曜日

「希望のヒマワリ畑」―福島県南相馬市でのボランティア

                                         未来を開く全日空の会 高木 正明
  福島県南相馬市で災害ボランティアに参加してきました。この地を選んだのは、原発事故による放射能の影響で宮城県などに比べてボランティアが少ないと報道されていたからです。
  南相馬市を襲った津波に加え、原発事故による放射能飛散という二重苦に直面し、東日本全体の避難者約10万人(5月末)のうち、南相馬市の避難者はその2割(2万人)に及んでいます。
 現地に入るとまず被災状況を車で案内していただきました。集合場所から3キロほど南下した20キロ圏警戒区域入口では警察官が検問をしており、住民といえども勝手に立ち入ると罰金10万円とのことです。
  海岸に近い県道の左右には、人が生活していたかけらも見ることができません。内陸部まで押し流されたおびただしい数のテトラポットに津波の威力を思い知らされます。まさに壊滅状態です。海岸から3キロも内陸に入っている国道6号線を走ると多くの漁船が路肩まで打ち上げられています。
   田んぼなどには津波によって運ばれた大量の瓦礫が残ったままです。農家にとってはそれだけでも前途を悲観するに値する困難ですが、それに加えて放射能の土壌への蓄積が絶望へと引き込もうとしています。
  しかし、この地で希望を失わない人々に出会いました。瓦礫と放射能に覆われた田んぼを再生させようと、農家とボランティア連絡会が行動を起こし、3枚の田んぼ(6千平米)でトライアルがはじまりました。
  まず瓦礫を片付け、セシウムなどの放射性物質をよく吸収するといわれるヒマワリを植え成長したら刈り取り別の場所で集中管理、放射能レベルが低下したら稲作を行なうというプロジェクトです。この農地を提供し自ら率先して作業の先頭に立ち地元の農家を励ましているのは、原発の危険性を長年訴え続けてきた地元の元議員さんで、現在はボランティア連絡会の役員をやっているおじいちゃん(Kさん)です。
   私に与えられたボランティア活動は幸いにもこのヒマワリプロジェクトでした。群馬、千葉、愛知の青年たち、小学校の先生を退職したばかりの高知のNさん、徳島から来たK建築士、そして紅一点?の京都のK元保育士などが瓦礫拾いに汗水を流しました。老若男女の作業が延々と続けられ、3日間、述べ20人の作業で瓦礫の片付けが完了しヒマワリの種植えを待つばかりです。
   瓦礫といっても人間生活のありとあらゆるものが拾い集められます。ランドセルやアルバムなどはボランティアセンターに届けられ、きれいに洗浄・乾燥・修復され展示し持ち主に戻されます。赤いランドセルなどを見ると、「生きていてほしい」と涙が出てきます。というのは、この近くの避難所の高台で60人中30人が津波に流されたと聞いていたからです。
  ボランティア仲間は、ここを「希望のヒマワリ畑」と名づけ、花咲く9月に再会を約束しあいました。
  翌日は台風接近のため屋内での作業となり、救援物資の冬物と夏物衣料の分別、大きな袋に入ったったお米を5合の小袋に分ける作業などを行ないました。今回のボランティア活動は、これまで味わった事のない充実した体験となり、大きな希望を分けてもらうことが出来ました。

2011年5月2日月曜日

3.11大震災支援報告 東京民医連


                伊藤邦夫(大森中診療所)
水浸しの中に点在する破壊された車
地震発生直後は当診療所の6・7階での物品の転倒などもあり、一時混乱も起こりましたが、外来患者様および職員の安全確認後、法人本部および全日本民医連との情報交換を開始し、現地宮城県の被災状況把握と医療支援の準備を始め、緊急車両の許可を取得し、支援場所とした宮城県の坂総合病院を目指し、医師、看護師とともに出発しました。


東北自動車道は現地に近づくにつれ道路の亀裂や路肩の崩落などが点在し、村田JCTを過ぎた辺りより景色が変わり、水浸しの中を点在する車が現れ、目的地手前の多賀城市に入ると津波で流され破壊された車両が道路両側の至る所に放置され、泥だらけの道路を進み目的地の塩釜市にある坂総合病院に到着しました。       
                                                     ※ 写真「現地の医療スタッフを補助して救急医療を支える


毎日三00人超の救急患者
持ち込んだ支援物資を降ろし本部からの状況を受け、医師と看護師は早々に途切れなく来院する救急患者の対応へと慌ただしく始まりました。現地は地震発生後、毎日三00人を超える救急患者と三十台を超える救急車が昼夜を問わず来院し、玄関先でのトリアージ(重症度分類)後、各ブースに誘導・搬送・治療と流れるシステムが機能し、各ブースには坂病院の医師・看護師が支援の医師・看護師と連携し対応していく様子は大きな処置室の様相でした。入院ベッド三三0床はすでに満床を超え三九二床まで拡大しての入院医療を継続中でした。病院周辺避難所は十か所以上に七000人以上が避難され、避難所への医療も始まったばかりでした。

被災した職員も多く、津波による職員の死亡者二名や家族などの行方不明も現実に起きている中で、地域の医療を必死に守ろうとしている職員の奮闘がひしひしと伝わってきました。発生三日目の13日には全国25県連の民医連医療機関から一一三名もの支援が入り、一人でも多くの命を救いたいと願う全国の連帯と行動力に驚かされました。

言葉を失う被害の中で
帰りの車を塩釜湾に向け、さらに若林区を経由し被災状況を見ました、あまりにも広範囲と被害の甚大さに言葉を失いました。町や自治体そのものが崩壊してしまった中で、これから新たに街づくりが始まろうとしています、防災に強い街つくりやエネルギーに対する考え方など多くの課題が山積みになると思いますが、地震という自然現象は防げなくても、発生後は住民の命と財産を守られる地域づくり、街づくりが作られることを願うとともに、今住んでいる首都東京の防災対策を考え直す機会になればと思いました。
今後も長期的な支援になるかと思いますが、全国の仲間とともに復興、再建に向けてがんばっていきたいと思います。 
             伊藤邦夫(東京民医連/大森中診療所)

2011年1月2日日曜日

革新懇運動の魅力を広げ、取り組みの強化を  地域・職場革新懇学習交流会

東京革新懇は12月11日、地域革新懇と職場革新懇が合同した学習交流集会を豊島区東部区民事務所で開催しました。午前中に、新堰事務局長から「革新懇の魅力-なんでも、だれでも、どのようにも」「情勢にふさわしい取り組みの強化」などの問題提起があり、進藤兵都留文科大学教授(東京自治問題研究所理事長)が記念講演を行いました。  
午後は分科会として、地域革新懇と職場革新懇に分かれて、活動の経験を交流しました。40名の参加がありました。


進藤教授は、「都政の課題と都知事選挙」と題して講演しました。その要旨は、次の通りです。
まず政局について、民主党政権は「国民生活が第1」と福祉国家志向をもってスタートしたが、管内閣は新自由主義構造改革路線へ逆送しているのではないか。そして、経済政策の基本となる「新成長戦略」は大企業・大銀行支援優先であり、社会保障の新自由主義化を進めるテコとなっているのが国家構造の再編(「地域主権改革」、「新しい公共」など)である。私たちは、新自由主義路線と闘い、その中から福祉国家の芽を育てていかなければならない。

都政変革の対抗構想
このような情勢の中で、来年4月に都知事選挙を迎えるが、各会派は石原都知事を含む候補者擁立を水面下で進めている。
東京は、「日本の首都」であるとともに「世界都市」という面もあるが、忘れてはならないのは、多くの人びとが生活を営み、働く一個の地域社会であるという面である。
石原都政の12年間で、東京という地域社会は、どのように変貌したのか。富裕層の都心回帰の一方で、雇用の縮小・不安定化・失業の増大、町工場・商店街の衰退、農林水産業の衰退がみられ、マンション・商業施設の拡大と木造密集住宅地域の残存、所得の二極化、若年失業の増加、貧困層の拡大と中間層の生活不安定化が進み、生活への不安と不満が高まった時代、そして自然と緑地の減少、公害問題やリサイクル、エネルギー問題などが未解決のまま取り残された時代と総括できよう。
2011年以後の都政は、石原都政の延長線上に位置付けられてはならない。「生活保障」「環境・経済」「まちづくり・防災」「教育」「税財政・自治行政」の5本柱から対抗構想を提案したい(内容は省略)。 以上の対抗構想を実現しようとすると、財源が必要であるが、その裏づけは可能である。そして、「都政の変革」に向け、対抗構想をみんなの意見で練り上げていきたい。
質疑の中では、米軍基地の縮小要求、都市農業、平和記念館・空襲被害者救援などで意見が出されました。

各地のとりくみを交流
地域革新懇の分科会では、「NPTの成功に向けて、横断幕・ユニホームをつくるなどデカク構えた取り組みで、3万7千余の署名、16名の代表派遣をやり遂げた。青年層へウイングを広げる努力をしている。」(世田谷)、「30周年の記念集会を開催し、『記念誌~あすをひらく』をつくった」(町田)、「NHK記者による『無縁社会』をテーマにした講演会を行った。会員のつながりを重視しニュースを定期発行している」(立川)、「情勢に追われ、政治革新の頭デッカチになっていないか、運動論・組織論が必要である。」(三鷹)、「再建に向け、2回学習会を開いた」(港)、「沖縄県知事選挙支援で街頭宣伝を行い、安保を考える沖縄の旅を実施した」(文京)などの発言が続きました。また、各地域革新懇の会費・機関紙の発行などの交流も行われました。
乾全国革新懇事務室長からは、「革新懇は各団体との交流を広げているが、農協関係者からは、農業の要求実現の上でも、国民的課題と結びつけることが大事で、政治を変えなければならない、との意見が出されている。」「革新懇は必要の認識が深まり、『暇になったら論』を克服しなければならない」との助言がありました。

きびしい職場実態で論議
職場革新懇の分科会には、西武、全日空、東京地下鉄、東京国公、都庁、NEC田町、東京ガス、共産党都委員会労働部から参加がありました。
長時間残業やメンタル面の疾患が多いことが話題となり各職場共通していることが話されました。「三六協定で40時間以内と決まっているのに百時間以上も残業している労働者も」「革新懇は、年金、安保など多岐に渡って学習会などできるので、幅広く参加してもらえるようにしたい」「日航の整理解雇の問題ではシンポジウムをやったらどうか」などの意見もだされました。最後に「取り組みのチラシを互いに渡しあう」、「一致するテーマがあったら共同の開催を」などが話されました。